もし理学療法士が保険の中で開業できたら、医療費は減るのか──両側の数字で考える思考実験
2026/8/7
この記事で分かること
読了時間:約 5 分
- ✓ 米国の研究では、腰痛でPTを最初の窓口にした患者はオピオイド処方の可能性が89%低く、高度画像検査が28%少なく、費用も低かった——「減る」側の証拠は実在する
- ✓ 日本には柔道整復の受領委任という「非医師の開業+保険」の前例があり、療養費は年間約4,000億円。財政当局が参照するのは米国の研究ではなく、この歴史
- ✓ 分かれ目は「代替」か「追加」か。医師の代わりの入口なら減りうるが、並列の窓口がもう一つ増えるなら増える。「あり得ない」は能力への評価ではなく、制度設計への評価だった
開業権の歴史をたどった記事で、半田会長の「あり得ない」という言葉を紹介しました。理由は、社会保障費の逼迫でした。
あの記事を書いてから、ひとつの問いが頭に残っています。では本当に、理学療法士が保険の中で開業できたら、医療費は増えるのか。減る可能性は、ないのか。
今回は思考実験です。実現しない前提の話に数字を並べる意味があるのかと思われるかもしれませんが、この問いを考えると、「なぜあり得ないのか」の解像度が一段上がります。そして、保険の外で働く私たちの立ち位置も、はっきり見えてきます。
「減る」側の証拠は、実在する
まず、開業権があれば医療費が減るとする側の証拠です。これは想像ではなく、実測データがあります。
米国では、程度の差はあれ全50州で、医師の紹介なしに理学療法士へ直接かかれる仕組み(ダイレクトアクセス)が認められています。この環境で行われた研究のうち、規模が大きいものを挙げます。
約15万件の保険請求データを分析した研究では、腰痛を発症した人が最初の窓口として理学療法士を選んだ場合、医師を最初に受診した場合と比べて、オピオイド(医療用麻薬系鎮痛薬)を処方される可能性が89%低く、MRIやCTなどの高度画像検査を受ける確率が28%低く、年間の自己負担額も約500ドル低いという結果が出ています。別の研究でも、制限のないダイレクトアクセスは医療利用と費用の低さと関連していました。
理屈は明快です。腰痛の多く(いわゆる非特異的腰痛)には、まず画像もオピオイドも必要ありません。運動と教育から入る窓口が最初にあれば、高額な検査と薬を通らずに済む人が増える。入口を変えるだけで、後ろに続く支出の列が丸ごと変わるわけです。
数字だけ見れば、「理学療法士の開業は医療費を減らす」という主張には、根拠があります。
「増える」側の証拠は、もっと近くにある
ところが、日本の財政当局がこの議論をするとき、参照するのは米国の研究ではないはずです。もっと近くに、60年分の前例があるからです。
柔道整復師です。
柔道整復師は、医師以外で唯一、開業して事実上保険を扱える仕組み(受領委任払い)を持っています。「非医師の開業+保険」という、理学療法士が夢見た形を先に実現している職種です。その結果、何が起きたか。
柔道整復の療養費は、年間約4,000億円。国民医療費の約1%にあたり、小児科診療所の医療費(約3,500億円)を上回る規模です。そして、肩こりを捻挫と偽って請求する手口や、同一患者で負傷と治癒を繰り返す「部位転がし」と呼ばれる請求など、不正請求が社会問題になり、厚生労働省の適正化の議論が今も続いています。
先に書いておきます。不正は一部であり、誠実な柔道整復師が大多数です。ここで見るべきは職種の良し悪しではなく、制度の構造です。保険で払われる窓口がもう一つ増えたとき、日本の仕組みの中では、需要が掘り起こされ、支出が膨らみ、審査が追いつかなかった——この歴史が、財務の側から見た「非医師の開業権」の実績データなのです。
もし理学療法士に同じ形の開業権が与えられたら、同じことが起きない保証はどこにもありません。むしろ供給者が増える分(理学療法士は柔道整復師より多く、さらに増え続けています)、規模はもっと大きくなり得ます。
分かれ目は「代替」か「追加」か
米国では減って、日本の前例では増えた。矛盾しているようで、していません。構造が違うのです。
米国の研究が測ったのは、代替の効果です。高額な画像検査とオピオイド処方に直行していた流れの代わりに、理学療法士が入口になった。元の流れが高くついていたから、安い入口への置き換えで総額が下がりました。
日本の柔道整復で起きたのは、追加の効果です。病院も接骨院もどちらも保険でかかれる。窓口が並列にもう一つ増えた。置き換えではなく上乗せなので、総額は増えます。
つまり、「理学療法士が保険の中で開業したら医療費は減るのか」の答えは、制度設計次第です。医師の入口を置き換えるゲートキーパーとして設計され、審査と重複受診の制御が機能するなら、減る可能性は理論上あります。でもそれは、柔道整復の制度で60年かけてもできていないことです。日本の制度がそれを実装できると財政当局に信じさせる材料は、いまのところありません。
「あり得ない」は、理学療法士の能力への評価ではなく、
日本の制度設計への評価だった。
こう整理すると、半田会長の判断の意味が変わって見えます。あれは「PTに開業させると碌なことにならない」という話ではなく、「日本の保険制度は、新しい窓口を代替として設計できた実績がない」という話だったのだと、私は理解しています。
保険の外にいる私たちの、ひとつだけ確かなこと
最後に、自費で開業している側として、正直な立ち位置を書いておきます。
私の店が医療費を減らしているか。測れません。うちに通って病院に行く回数が減った方はいますが、それを統計で証明する手段を私は持っていません。「自費リハが医療費削減に貢献する」と軽々しく言うつもりはないです。
ただ、ひとつだけ確かなことがあります。私の店のお客様は、ここで社会保障費を1円も使っていません。全額自費です。開業権が「あり得ない」とされた理由が社会保障費の逼迫なら、保険の外で働く私たちは、少なくともその心配の外側で仕事をしています。
保険の中の開業は、制度の宿題。保険の外の開業は、信頼の積み上げ。この連載で何度も書いてきた結論に、今回も戻ってきました。
正直な注記
私は医療経済の専門家ではありません。この記事の米国データは公開されている研究(約15万件の請求データ分析ほか)に基づきますが、米国と日本では医療制度も価格構造も違い、数字をそのまま日本に当てはめることはできません。柔道整復療養費の規模と不正請求問題は、厚生労働省の公開資料と報道に基づく公知の事実ですが、繰り返すとおり、不正は一部の事業者の話です。この分野に詳しい方の異論・補足を歓迎します。
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よくある質問
Q. 米国で医療費が減るなら、日本でも減るのではないですか?
A. そう単純にはいきません。米国の研究は、高額な画像検査やオピオイド処方が蔓延していた医療の「代わりに」PTが入口になった効果を測ったものです。日本はもともと画像もオピオイドも米国ほど過剰ではなく、削減の余地が同じだけあるとは限りません。制度の背景が違う数字を直輸入することはできない、というのがこの記事の前提です。
Q. 柔道整復師を批判しているのですか?
A. いいえ。不正請求は一部の事業者の問題であり、誠実に施術している柔道整復師が大多数です。この記事で見ているのは職種ではなく制度の構造——保険の窓口が増えたとき、日本の仕組みでは需要と支出がどう動いてきたか——です。むしろ同じ構造は、もし理学療法士が同じ制度に入れば同じように起きると考えるべきだと思います。
Q. 自費リハビリは医療費削減に貢献しているのですか?
A. 正直に言うと、測れません。私の店に通う方が病院に行く回数が減ったとしても、それを医療費統計で証明する方法を私は持っていません。ただ、ひとつだけ確かなことがあります。自費のお客様は、私の店で社会保障費を1円も使っていません。開業権が「あり得ない」とされた理由が社会保障費なら、保険の外で働く私たちは、少なくともその心配の外側にいます。